LOGIN「ねえ、みんな、これ見た?」
莉奈のその一言で、それまで朝の教室に流れていた眠そうな雑談や、課題を忘れた男子が友達へノートを借りようとする声や、コンビニのパンを食べながら先生が来る前に宿題を写している子たちの騒がしさが、まるで見えない糸で一斉に引っ張られたみたいに、教室の後ろ側へ集まっていった。
私は席から立てなかった。
篠宮君も、動かなかった。
莉奈のスマートフォンに表示されていたのは、昨夜うちの前で撮られた写真だった。
玄関の灯りがあるとはいえ夜だから画像は少し粗く、私の顔もはっきりとは写っていないのだけれど、同じ学校の人が見れば制服ではなくても私だとわかるくらいには輪郭が残っているし、何より隣に立っている男子は、昨日までネット上の記事で何度も拡散されていた「世界的財閥・九条家の幻の御曹司」とよく似ている。
というより。
本人だ。
九条蓮司本人。
第83話 「高い物はいらないって言われた。でも安ければいいわけでもない」御曹司が初めてクリスマスプレゼントの値段より彼女の生活を考えました クリスマスイブに会える時間が十五分だけと決まった翌日から、篠宮君は妙に落ち着かなくなった。 原因はわかっている。 プレゼントだ。 私が「高価な物はいらない」「学校でも使える物がいい」と言ったせいで、むしろ考える範囲を狭めすぎたらしい。 朝のホームルーム前、席替えですっかり離れてしまった教室の反対側から何度かこちらを見ていた篠宮君が、佐伯先生が出ていくなり私の机まで歩いてきた。「高梨」「何?」「筆箱、今の好き?」「急にどうしたの」「質問」「見ればわかるでしょう。去年から使ってるけど」「買い替えたい?」「別に」「じゃあ筆箱じゃない」「蓮……篠宮君」 学校なので呼び直す。「うん」「プレゼントの聞き込みを本人にしすぎたら、全部ばれるよ」「でも、いらない物を渡したくない」「それはわかるけど」「ボールペンは?」「持ってる」「手帳」「スマホで予定見る」「定規」「クリスマスに定規もらったら、たぶん一生覚えてると思う」「悪い意味で?」「かなり微妙な意味で」 篠宮君は本気で考え込んだ。「じゃあ学校で使える物って、何?」「そこ自分で考えるんじゃなかった?」「難しい」「私も蓮……篠宮君のプレゼント考えてる
第82話 「クリスマス、会えないかもしれない」ケーキ屋の娘と御曹司、初めて恋人らしい予定が合いませんでした 十一月も終わりに近づいた頃、駅前の景色が急にクリスマスらしくなった。 つい先週まで秋物の服が並んでいた店先に赤と緑の飾りが増え、駅前広場の木には電飾が巻かれ、学校帰りの女子たちは「今年どこのイルミネーション行く?」なんて話をしている。 そんな中、昼休みに私の机までやってきた篠宮君は、いつになく少し緊張した顔をしていた。「高梨」「何?」「十二月二十四日」「うん」「予定ある?」 あまりにも真っ直ぐ聞かれて、私は一瞬返事に詰まった。「……クリスマスイブ?」「うん」「あるよ」 篠宮君の表情が止まった。「ある?」「ある」「誰と?」「その聞き方、ちょっと怖いよ」「ごめん。でも」「ソレイユ」「……店?」「一年でかなり忙しい日の一つ」 篠宮君は数秒黙った。「あ」「忘れてた?」「クリスマスにケーキ屋が忙しいことは知ってた」「じゃあ何で」「高梨が手伝うところまでつながってなかった」「娘だからね」「毎年?」「ほぼ毎年。学校ある日は夕方からだし、休みなら朝から」「二十四日も?」「今年は平日だけど、終業式のあとすぐ店戻ると思う」「二十五日も?」「たぶん」 篠宮君は、少しだけ目を伏せた。
第81話 「抱きしめてもいい?」約束のデートで御曹司を初めて抱きしめたら、今度は離れるタイミングがわからなくなりました 相沢君の試合を見に行った翌週の日曜日、私は駅前の時計を見上げながら、珍しく篠宮君より先に待ち合わせ場所へ着いていた。 約束は午前十一時。 今は十時五十二分。 いつもなら、この時点で彼はもう十分くらい前から立っているはずなのに、今日はまだ姿がない。「……まさか」 少しだけ心配になってスマートフォンを確認しようとした、その時だった。「紗季」 後ろから声がした。 振り返る。「びっくりした!」「ごめん」「どこから来たの?」「反対側の改札」「いつ着いた?」「今」「本当に?」「十時五十一分」「一分前じゃん」「うん」 本人は妙に満足そうだった。「何その顔」「待ち合わせ八分前」「普通!」「かなり改善した」「自分で言うんだ」「前は二十五分前」「それ考えたら確かに」 篠宮君は今日も自分で選んだらしい私服だった。 濃い色のニットに細身のパンツ。学校では隠している本来の輪郭がかなりわかる髪型だけれど、眼鏡を掛けているので、以前よりは人目を避ける工夫も自然になっている。「今日の服、自分で?」「うん」「黒崎さん確認なし?」「写真だけ送った」「送ったんじゃん」「『問題ありません』だけ返ってきた」
第80話 「高梨が来られなくても、俺は行く」御曹司が初めて彼女抜きで友達の試合を見に行きました 相沢君が篠宮君の本当の名前を知った翌日も、教室は驚くほど何も変わらなかった。「篠宮、英語の小テスト返ってきた?」「まだ」「俺、今回ちょっと自信あるんだよ」「前も言って六十二点だった」「あれは単語の範囲を一ページ勘違いしただけだから」「それを自信あるって言わない」「朝から正論やめろよ」 普通だ。 本当に普通だった。 相沢君は篠宮君を「九条様」とも「御曹司」とも呼ばないし、急に敬語にもならなかった。 むしろ昨日までと同じ調子で数学の宿題を見せてもらい、篠宮君が説明を始めると「そこまではわかるから三行飛ばして」と注文までつけている。 ただ、一つだけ以前と違うことがあった。 相沢君が時々、篠宮君の顔をじっと見る。 それも、かなり露骨に。「相沢」「ん?」「今日五回目」「何が?」「俺の顔見るの」「数えてんのかよ」「気になる」「いや、だってさ」 相沢君は小声になる。「これが九条グループの御曹司なんだなって思うと、ちょっと確認したくなるんだよ」「確認して何か変わる?」「変わらないから余計変なんだよ。昨日まで俺とコンビニで百円台のおにぎり見てた奴だぞ」「今も見る」「そうなんだけどさ」 私は隣で聞きながら笑ってしまった。「相沢君、まだ処理中なんだね」「そりゃ一日じゃ無理だって」「俺、何かしたほうがい
第79話 「俺の本当の名前、相沢には先に話したい」冴えない転校生が初めて“友達だから知ってほしい”と正体を明かしました 美玲ちゃんのオーディション結果が出てから数日後、今度は篠宮君自身の「名前」の話が、また少しだけ前へ進んだ。 きっかけは朝のホームルームが終わった直後、佐伯先生から呼び止められたことだった。「篠宮、今日の放課後に少し時間取れるか」「はい」「黒崎さんにも来てもらう。三年次の氏名変更について、事務側と確認した内容がまとまった」 教室の何人かがこちらを見る。 文化祭以来、篠宮君が本名ではない名前で通学していること自体はみんな知っているので、以前ほど空気がざわつくことはない。それでも「氏名変更」という言葉が出れば、多少気になるのは当然だ。 相沢君も近くで聞いていた。「いよいよ本名に戻すやつ?」 篠宮君は少しだけ迷い、それから頷いた。「うん」「三年から?」「その予定」「そっか」 相沢君はそれ以上聞かなかった。「じゃあ俺、来年最初しばらく間違えて篠宮って呼ぶと思う」「……その可能性考えてなかった」「いや絶対いるだろ。二年ずっと篠宮なんだから」「先生も間違えるかもしれないって言ってた」「じゃあ俺が間違えても怒るなよ」「怒らない」「本名で呼ばれたほうがいい?」「その時になったら」「了解」 それだけ言って、相沢君は自分の席へ戻った。 私は少し離れたところから見ていた。 篠宮君がこちらへ来る。「高梨」「うん」
第78話 「主役じゃなかったです。でも、辞めたくありません」御曹司の妹が初めて“選ばれない悔しさ”を自分で持ち帰りました 篠宮君が地域政策アイデアコンテストへ企画を応募した翌週、今度は美玲ちゃんの演劇部のオーディション結果が出た。 知らせを受けたのは、放課後の教室だった。 私は帰り支度をしながら、美咲と『焼き林檎のひと休みタルト』の売れ行きについて話していた。「今週、雨の日だけ二個残ったんでしょう?」「うん。でも叔父さん、前みたいにすぐ減らさずに、もう一週間同じ数で見るって」「紗季も平気なの?」「前よりは。最初は残ると全部私のせいみたいに思ってたけど、天気とか曜日とかあるし」「ちょっと店の人っぽくなったね」「まだ高校生」「でもPOP書いて値段決めて、売れ残りで一喜一憂してる高校生ってあんまりいないよ」「それ言ったら、政策コンテストに十九ページ送る高校生もあんまりいないでしょう」「篠宮君ね」 その本人は、教室の後ろでスマートフォンを見たまま止まっていた。 最近、本人が黙り込むと以前ほど不安にはならない。 考えているだけの時もあるし、嬉しすぎて止まっている時もあるし、相沢君から妙なメッセージが来て処理に困っている時もある。 ただ、今日は少し違った。「紗季」 美咲も気づいたらしい。「篠宮君、顔硬くない?」「うん」 私は鞄を持ち、そのまま彼の席へ向かった。「篠宮君」 呼ぶと、少し遅れて顔を上げた。「高梨」「何かあった?」「美玲から」「オーディション?」 篠宮君が頷く。







